2010年06月01日
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玉電が何故、天現寺橋なのか

Written By: 川俣 晶連絡先

 「て」さんよりのメッセージです。

川俣さん。こんにちは。

玉電が何故、天現寺橋なのか…について、私なりにまとまりました。

天現寺橋には玉電開通前の明治末期に、東京電気に依って信濃町~天現寺橋間に開通(~渋谷橋~長者丸~目黒不動~池上~川崎を目指していた)直後に東京市電に統合、東京市電も独自に天現寺橋~品川方面に路線を拡大接続。そして大正5年広尾車庫開業。

この頃の渋谷はと豊多摩郡渋谷町で(渋谷区誕生は昭和7年)天現寺橋は東京市と郡部の境界であった。渋谷川の川運の上流部も天現寺橋であった。渋谷の繁華街は道玄坂で、住宅は天現寺橋方面に渋谷川流域に延びる(大正元年の人口は渋谷町だけで5万人、同9年には9万人に)

省電渋谷駅は現在より300m南方の地上線であり、大正9年に現在地に移動、高架化。同時に玉電は高架下を潜り東口へ駅移動。同11年渋谷橋開業。同13年天現寺橋開業~市電信濃町方面、品川方面と線路が繋がる。

大正9年玉電は市電と直通砂利運送の為、既存線の運転縮少しながらも改軌。渋谷駅でも線路を繋ぐが天現寺橋でも接続。同時期に砧線も開通(砧の砂利が品川方面に行できる様になる)

玉電天現寺線の建設には東京市の意向が大きくあったらしい…郡部の支線だから私鉄に建設させ、玉電側も渋谷川沿いの発展の見込みで応じた。天現寺線は、関東大震災の復興作業に大きな力を発揮したが、昭和9年の砂利採取規制法、東横鉄道の対抗から玉電ビルの建設で、分離盲腸線になってしまった。

以上、長々とすみません。私自身調べていて驚く事ばかりでした。

京王線下高井戸からの砂利も天現寺を通っていたのか?!とロマンが広がりました。

 実はこの話を読んで別の感想がでてきましたが、それは別の機会に。

 ちなみに、話が水運と接続したことで、視野が大きく広がりました。つまり、中央線の飯田「町」終点時代が、水運との接続点として解釈できるのと同じように、天現寺橋も解釈できるわけですね。

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